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スタッフBLOG

西東京市下野谷遺跡公園の「縄文の森秋まつり」!!

2023.10.09

いつもマイタウンブログをご覧頂き有難うございます。
株式会社マイタウン西武の内堀 義満です。
  
 
皆様、暑い暑い残暑も終わりようやく涼しくなってきました。
暑いのは嫌いですが、夏が終わるのはなんだか寂しいですねgawk
 
涼しくなってきた中、先日西東京にあります下野谷遺跡公園に行ってきました。
歴史や自然も感じられる公園だったのでご紹介させていただきます。
 
場所
西武新宿線「東伏見駅」南口より徒歩約7分
西東京市東伏見六丁目4番

 
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 下野谷遺跡は、西東京市東伏見二丁目、三丁目、六丁目地内に所在する縄文時代中期(今から約5千年前から4千年前)の環状集落であり、南関東では傑出した規模と内容を誇っています。平成27年3月に一部が国史跡に指定されました。
 集落には、土坑(お墓と考えられる穴)群のある広場を囲むように、住居跡や掘立柱建物(倉庫などと考えられる建物)群などが並ぶ形で構成されており、縄文時代中期の典型的な「環状集落」という構造をしています。さらに、こういった環状集落が谷を挟んで複数存在しており、「双環状集落」と呼ばれる拠点的な集落の特徴があります。
 このような形態や、出土している土器からわかる集落の継続期間が1,000年間と非常に長く、また、住居跡や土坑が密集して見つかっていることなどから、石神井川流域の拠点となる集落だったと考えられているそうです。

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 下野谷遺跡の周辺では、戦前から、畑の耕作などの際に縄文土器のかけらなどが多く見つかることが知られており、昭和25年に考古学者の吉田格氏により「坂上遺跡」という名称で、文献上初めて紹介されました。
その後、昭和48年から本格的な発掘が実施され、昭和50年には旧字名をとり「下野谷遺跡」と名称が変更されました。
 調査では、旧石器時代から縄文時代後期にかけての遺構や遺物が出土していますが、特に縄文時代中期の縄文土器や石器が多く出土しています。

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下野谷遺跡公園の地下には、西集落の一部が保存されています。現在整備が進んでおり、令和3年度には縄文時代の墓が復元されました。
また、園内には、クリやクルミの木も植えられており、縄文人が集落として好んだ立地や自然を知ることができます。

 また、春と秋には下野谷遺跡の普及事業として、園内でイベントを開催しています。
特に、秋に開催している「縄文の森の秋まつり」は、皆さんが協働により実施している縄文体験などができるイベントで、毎年多くの方が来場しています。

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西東京市、新座市、東久留米市には歴史や自然に触れられる公園が沢山あり、子育をするのにとても良い環境だと思います。
 
こちらの方でお住まい探しをご検討している際は物件のご案内以外にも公園や施設等も、併せてご案内させていただきますconfident

「西東京市」の歴史

2023.07.09

マイタウン西武ブログをご覧の皆様
営業の柳沼 剛(やぎぬま たけし)です。
 
前回、私のブログでは西武鉄道の歴史について書きましたが、今回は弊社の得意エリアでもある『西東京市』の歴史について書きたいと思います。

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(市のランドマークといえるスカイタワー西東京・通称田無タワー)
(ちなみにこの田無タワー1989年6月に完成しています)
 
西東京市は遺跡が多く発掘されており、旧石器時代から人が住んでいた事がわかっています。
飛鳥時代には武蔵国が設置され田無地域は多摩郡、保谷地域は新羅郡に属していました。
また、市内の西原遺跡から奈良時代の土器が、坂下遺跡からは平安時代の土器がそれぞれ出土されています。
市内北部を流れる白子川の流域に下保谷、中部を流れる新川の流域に上保谷と田無の集落が形成されました。

1559年(永禄2年)の文章(小田原衆所領役帳)には『保屋』『田無』の文字が見られ、この頃には保谷、田無の地に集落が成立していた事がわかります。
その後、1600年頃に江戸城造営のための石灰運搬のため青梅街道が開削され田無にはこの街道の宿駅が置かれました。
一方、保谷では亨保期(1716年~1736年)以降に下保谷新田(現在のひばりが丘周辺)と上保谷新田(現在の新町周辺)が開墾されました。
1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行に伴い、当時の下保谷村、上保谷村、上保谷新田村が合併し保谷村が設立し、一方、田無では、この少し前1879年(明治12年)に田無村が町制を施行し田無町になりました。
戦後の1959年(昭和34年)には、日本住宅公団最大の公団住宅であるひばりが丘団地が保谷町・田無町(および久留米町)にまたがる地域に造成されるなど両市ともに順調に人口が増加し、1967年(昭和42年)には保谷町、田無町ともに市制を施行して、それぞれ保谷市・田無市となりました。
旧保谷市は旧田無市の北、東、南を囲むような形をしており、特に南部が細長い市形となっていたため、行政効率などの点で田無市との合併が古くから考えられており、2001年(平成13年)1月21日に保谷市と田無市が合併し、『西東京市』が発足しました。
また過去(1960年代)には田無、保谷、久留米(現・東久留米市)の3町での合併構想もあったみたいです。

少し長くなってしまいましたが、西東京市の歴史について書いてみました。
自分の住んでいるとろの歴史を調べてみると新しい発見があり面白いと思いますflair
 

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